その言葉は、事実ではなく、過去の失敗から生まれた物語かもしれない。
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私は機械音痴なんです
「私は機械音痴なんです。」
そう言いながら、少し笑ってごまかす女性の姿を、私は何度も見てきました。
その笑顔は、明るく振る舞っているようでいて、どこかに諦めが混ざっています。
まるで、自分に先に烙印を押しておくことで、これ以上傷つかないようにしているかのように。
パソコンの前に座ると、指先が固くなる。何を押せばいいのか分からなくなり、画面が少し変わっただけで心臓がきゅっと縮む。
「変なところを触って壊したらどうしよう」「こんなことも分からないなんて、恥ずかしい」。
その思いが、言葉になる前に胸の奥に積もっていきます。
若い人が軽やかにキーボードを打つ姿を見ると、余計に自分との差を感じてしまう。
「やっぱり私は向いていないんだ」と、そっと結論を出してしまう。
誰かに責められたわけではないのに、自分で自分に判決を下してしまうのです。
でも、本当は少し違います。
あの一言の裏側には、「本当は出来るようになりたい」という気持ちが隠れています。
仕事で困らないようになりたい。誰かに頼らず、自分で資料を作れるようになりたい。子どもや後輩に、「すごいですね」と言われてみたい。
そんな小さな願いが、確かにあるのです。
ただ、その願いを口にするのは少し怖い。期待して、また失敗したらどうしようと思ってしまうから。だから先に、「私は機械音痴なんです」と言ってしまう。その言葉は、弱さではなく、自分を守るための鎧だったのかもしれません。
もし今、この文章を読みながら胸のどこかが静かにうなずいているなら、それはあなたが「本当は出来るようになりたい人」だからです。
本当に興味がなければ、そもそも悩まないのですから。
「私は機械音痴なんです。」
その言葉を、今日だけは少しだけ疑ってみませんか。
もしかしたらそれは、事実ではなく、長い間そう思い込んできただけのラベルなのかもしれないのです。
その言葉は、いつから自分のものになったのでしょうか。
思い返せば、最初はほんの小さな出来事だったのかもしれません。
職場で配られたExcelの表がうまく開けなかった日。
隣の席の若い同僚に「ここ、こうすればいいんですよ」と一瞬で直されたときの、あの何とも言えない気まずさ。
家に帰ってからも、胸の奥に残ったざらついた感情。
あるいは、初めてパソコン教室に行ったとき。周りは慣れているように見えて、自分だけが取り残されている気がした。
質問しようとしても、「こんなこと聞いたら笑われるかもしれない」と言葉を飲み込んでしまった。
その一瞬の沈黙が、「私は出来ない人」という感覚を静かに育てていったのかもしれません。
教わり方が合っていなかっただけなのに。
説明が早すぎただけなのに。
横で見ている人の視線が気になっただけなのに。
たったそれだけのことが、いつの間にか「向いていない」という結論にすり替わってしまう。
そしてもう一つ、多くの女性に共通しているのが、完璧にやろうとする優しさです。
中途半端に理解したまま進むのが怖い。ちゃんと出来ないなら、触らないほうがいいと思ってしまう。失敗したら誰かに迷惑をかけるのではないかと考えてしまう。その誠実さが、逆に自分の可能性を狭めてしまうこともあるのです。
「出来なかった経験」は事実かもしれません。
でも、「出来ない人」というのは、本当に事実でしょうか。
失敗した瞬間は、強烈です。
人前でつまずいた記憶は、何度も頭の中で再生されます。
でも、うまく出来た小さな成功は、案外すぐに忘れてしまう。
人は、自分の失敗のほうを強く覚えている生き物だから。
気づかないうちに、そのいくつかの出来事がつながって、「私は機械音痴なんです」という物語が出来上がる。
まるで昔からそうだったかのように、自然に語れるようになってしまう。
でもそれは、能力の証明ではありません。
たまたまうまくいかなかった経験と、ちょっとした恥ずかしさと、周囲との比較が重なって出来た“物語”に過ぎないのです。
もしそれが物語なら、書き直すこともできるはずです。今はまだ信じられなくても、少なくとも、最初から「向いていない」と決まっていたわけではない。
その可能性だけは、そっと心の片隅に置いておいてもいいのではないでしょうか。
“出来ない人”になった瞬間
では、少し視点を変えてみましょう。
本当に“機械音痴”なのでしょうか。
朝、目覚ましを止めるのはスマホです。LINEで家族や友人とやり取りをし、写真を撮って、ネットでお店を調べて、地図アプリで道を確認する。ネットショッピングで商品を選び、支払いを済ませ、宅配の追跡まで出来る。看護師さんなら電子カルテを操作しているかもしれないし、事務職の方ならシステム入力も日常の一部でしょう。専業主婦の方でも、自治体の手続きや学校の連絡をオンラインでこなしている。
それでも、「私は機械音痴なんです」と言う。
ここに、少しだけ不思議なズレがあります。
もし本当に機械音痴なら、スマホも触れないはずです。検索も出来ないはずです。アプリを入れたり、写真を送ったり、動画を見たりも出来ないはずです。でも、出来ている。日常生活の中で、十分すぎるほど機械を使いこなしている。
ではなぜ、パソコンになると急に「出来ない人」になってしまうのでしょうか。
それはきっと、“出来ていること”よりも、“出来なかった場面”のほうが心に残っているからです。Excelの関数でつまずいた瞬間。Wordのレイアウトが崩れて焦ったあの日。あの一瞬の混乱が、まるで自分の全体を象徴するかのように記憶に刻まれてしまった。
でも、冷静に見れば、それは“知らなかった操作”があっただけのことです。包丁を使いこなせる人が、初めて触る電動ミキサーに戸惑うのと同じ。能力ではなく、慣れと順番の問題にすぎません。
そしてもう一つ。パソコンは「仕事」と結びつきやすい道具です。
失敗すると評価に影響するかもしれない。誰かに迷惑をかけるかもしれない。
その緊張が、普段の自分らしさを奪ってしまう。
スマホは気楽に触れるのに、パソコンは構えてしまうのは、その重さの違いなのかもしれません。
だから、「出来ない」のではなく、「怖かった」だけなのかもしれないのです。
もし、パソコンが評価や比較と切り離されて、ただ“順番通りに試せる場所”だったらどうでしょう。失敗しても誰も急かさない場所だったらどうでしょう。あなたが出来ない人だからではなく、ただ初めて触る操作だったから戸惑ったのだと、自然に理解できる場所だったら。
そのとき初めて、「あれ?私、意外と出来るかもしれない」と思える瞬間が訪れます。
まだ大きな自信ではありません。ほんの小さな違和感です。「本当に機械音痴なのかな?」という、静かな疑問。
でも、その疑問こそが、長い間貼り続けてきたラベルを、少しだけ浮かせる力になるのです。
小さな成功は、静かに起きる
では、ここで一人の女性の話をしてもいいでしょうか。
仮に、彼女を佐藤さんとします。42歳、看護師。日々の業務は忙しく、電子カルテも扱っています。それでも彼女は、パソコンとなると「私は機械音痴だから」と笑っていました。職場で資料作成の話が出るたびに、「私、そういうの苦手なので」と一歩引く。それがいつの間にか、自分の立ち位置になっていました。
ある日、どうしてもExcelで簡単な表を作らなければならなくなりました。本当は断りたかった。
でも、ずっと逃げ続けるのも違う気がして、意を決してパソコンの前に座りました。手のひらが少し汗ばんでいたそうです。
最初は、恐る恐る。文字を入力するだけでも、どこか緊張している。間違えるたびに「やっぱり無理かも」と頭の中で声がする。
でも、横で急かす人はいませんでした。「出来なくて当然ですよ」と言われたわけでもありません。
ただ、「一つずつやってみましょう」と言われただけ。
罫線が引けた。数字がそろった。印刷してみたら、きちんと形になっていた。
それは、誰から見ても大したことのない表だったかもしれません。でも彼女にとっては、まったく違いました。
「私にも出来た」という感覚が、じわっと胸に広がったのです。
その日、彼女の表情が少し変わりました。劇的ではありません。
ただ、パソコンの前に座るときの肩の力が、ほんの少しだけ抜けていた。
「苦手」から「まだ慣れていない」に変わった瞬間でした。
人は、大きな成功で変わるのではないのかもしれません。
ほんの小さな「出来た」が、自分の物語を書き換えていく。
機械音痴だと思っていた彼女は、ある日こう言いました。
「私、出来ないんじゃなくて、ちゃんと教わったことがなかっただけかもしれませんね」と。
それは、自分を責める言葉ではありませんでした。少し照れながらも、どこか軽くなった声でした。
「出来ない人」というラベルは、貼るのは簡単です。
でも、一度貼ると、行動まで制限してしまう。
挑戦する前から、結果を決めてしまう。
もしそれが能力ではなく、ただの思い込みだとしたら。
もし、“機械音痴”という言葉が、あなたを守るための仮面だったとしたら。
本当は、出来ないのではないのかもしれません。
まだ、自分に合った順番と環境に出会っていなかっただけ。ほんの少しの成功体験が、その事実を静かに証明してくれるのです。
そして気づきます。「出来ない」ではなく、「やってこなかった」だけだったのかもしれない、と。
「機械音痴」というラベルの危うさ
「機械音痴」という言葉は、いつの間にか自分を説明する便利な肩書きになっていきます。
新しいことを頼まれたときの逃げ道になり、失敗したときの理由になり、挑戦しないことを正当化してくれる言葉になる。
自分を守ってくれるはずだったそのラベルが、気づけば自分の可能性まで縛ってしまう。
でも、少しだけ立ち止まって考えてみてほしいのです。
機械音痴とは、本当に能力の問題でしょうか。
生まれつき「出来る人」と「出来ない人」が分かれているのでしょうか。
もしそうなら、最初からスマホも触れなかったはずです。初めて自転車に乗ったときも、料理を覚えたときも、子育てを始めたときも、全部出来なかったはずです。
それでも私たちは、少しずつ慣れ、少しずつ覚え、いつの間にか当たり前のように出来るようになってきました。
では、なぜパソコンだけが例外なのでしょう。
多くの場合、パソコンは「出来て当たり前」という空気の中にあります。
仕事では即戦力を求められ、誰かが横で待っている。分からないと言いにくい。時間がない。比較される。
そんな環境の中で、「ゆっくり分からないまま試す」という時間を持てなかっただけなのかもしれません。
出来なかったのは、能力が足りなかったからではなく、順番が飛ばされていたから。
基礎の前に応用を求められ、理解する前にスピードを求められたから。
そしてもう一つ、私たちは自分に対して厳しすぎます。
若い頃と比べる。器用な人と比べる。出来る人の姿だけを見て、「私は遅い」と判断する。
でも、本当に比べるべきは、昨日の自分だけのはずです。
ラベルは、何度も自分に言い聞かせることで、事実のように感じてしまいます。
「私は機械音痴」「どうせ出来ない」「今さら遅い」。
その言葉を何年も繰り返せば、心はそれを真実だと受け取ります。
でも、もしその言葉を少しだけ変えられたらどうでしょう。
「私は機械音痴」ではなく、「私はまだ慣れていないだけ」。
「どうせ出来ない」ではなく、「まだ順番が分からないだけ」。
「今さら遅い」ではなく、「今からなら間に合う」。
ほんの少しの言い換えが、行動を変えます。
HEARTSが大切にしているのは、派手なスキルではありません。
「出来る感覚」を、ひとつずつ積み重ねることです。
誰かと比べるのではなく、自分のペースで理解し、自分の手で形にする体験。出来た瞬間の、あの静かな喜びを、きちんと味わうこと。
「出来ない」のではなく、「学び方を知らなかっただけ」。
もしそうだとしたら、あなたはもう、欠けている人ではありません。これから伸びていく途中の人です。
長い間、自分に貼り続けてきたラベルを、今日すぐに剥がさなくてもいいのです。
ただ少しだけ、ゆるめてみる。それだけで十分です。
もしかしたら、あなたは機械音痴なのではなく、ずっと自分を守ってきただけなのかもしれません。
そしてその優しさは、本来、何かを学ぶときの強さにもなります。
もし今、「少しだけやってみようかな」と思えたなら、それはもう変化の始まりです。
大きな決意はいりません。
小さな一歩でいいのです。
あなたが思っているより、あなたは出来る人かもしれませんから。
出来ないのではなく、学び方を知らなかっただけ
「出来ないのではなく、学び方を知らなかっただけ。」
この言葉は、きれいごとに聞こえるかもしれません。でも、実はとても現実的な話です。
私たちはこれまで、たくさんのことを“順番通り”に教わってきました。
ひらがなは、いきなり文章から始めませんでした。一本の線から始まり、形を覚え、音を知り、少しずつ読めるようになった。
自転車も、最初は補助輪がありました。転びながら、何度も練習して、やっとバランスが取れるようになった。
けれどパソコンだけは、なぜかいきなり実践です。
「これ、今日中にまとめておいて」「この関数使えば簡単だから」「みんな出来てるよ」。
基礎の説明よりも、結果が求められる。分からないまま進み、出来なかった経験だけが残る。
それで「向いていない」と思ってしまうのは、無理もありません。
でも、本当に足りなかったのは、能力ではなく“順番”かもしれません。分からないことを分からないと言える空気。失敗しても評価が下がらない環境。小さな達成をちゃんと認めてもらえる時間。そうしたものがなかっただけなのかもしれません。
出来ない人はいません。ただ、自分に合った学び方に出会っていない人がいるだけ。
理解は、人それぞれ違います。文章で理解する人もいれば、手を動かして分かる人もいる。
ゆっくり噛み砕いてもらうと安心する人もいれば、全体像が見えてから細部に入りたい人もいる。どれも正解で、どれも間違いではありません。
HEARTSが大切にしているのは、「出来るようにすること」よりも、「出来ると感じられる順番」を整えることです。
急がせない。比べない。置いていかない。ただ、一つずつ。出来た瞬間を、ちゃんと自分で実感できるように。
不思議なもので、最初の小さな成功があると、次の一歩は少し軽くなります。「あ、また出来た」と思えたとき、人は自分に対する見方を少しだけ変えます。その積み重ねが、やがて「苦手」だったものを「普通」に変えていく。
「私は機械音痴なんです」と言っていた人が、「前よりは分かるようになりました」と言うようになる。その声は、決して大げさではありません。でも、確実に自分の物語を書き換えています。
出来ないのではない。
学び方を知らなかっただけ。
もしそうだとしたら、今からでも遅くはありません。年齢も、過去の失敗も、関係ありません。
必要なのは、正しい順番と、安心できる場所だけ。
そして何より、自分を決めつける言葉を、ほんの少し緩めてみる勇気です。
あなたがこれまで出来なかったのは、あなたのせいではありません。ただ、まだ出会っていなかっただけ。自分に合った学び方に。
その事実に気づいたとき、未来は少しだけやわらかくなります。
もし、ラベルを外せたら
もし、「機械音痴」というラベルを、そっと外せたとしたら。
明日いきなり完璧になるわけではありません。
Excelが魔法のように使いこなせるわけでも、Wordで難しい資料が一瞬で作れるようになるわけでもないでしょう。
でも、ひとつだけ確実に変わることがあります。
パソコンの前に座るときの、自分の気持ちです。
「どうせ無理」ではなく、「ちょっとやってみようかな」。
「また失敗するかも」ではなく、「前よりは分かるかもしれない」。
その小さな変化が、行動を変えます。
そして行動が変わると、経験が変わります。
経験が変わると、物語が変わる。
今まであなたは、「私は機械音痴」という物語の中で生きてきたのかもしれません。
でも、本当はもう一つの物語も選べるはずです。
「私は、ゆっくりだけど出来るようになる人」という物語を。
ラベルは、他人が貼るものではありません。自分で貼り、自分で強めてきたものです。
だからこそ、自分でゆるめることもできる。
完璧じゃなくていい。早くなくていい。若くなくていい。
ただ、自分を決めつける言葉を、少しだけ疑ってみること。
それだけで、未来の景色はほんの少し変わります。
もしかしたら、あなたはずっと出来ない人だったのではなく、ただ勇気を出すタイミングを待っていただけなのかもしれません。
「私は機械音痴なんです。」
その言葉を、今日で終わりにしなくてもいいのです。ただ、そのあとに、小さくこう付け足してみてください。
「でも、もしかしたら違うかもしれない。」
それだけで、十分です。
あなたの可能性は、あなたが思っているより、ずっと静かに、ずっと確かに、そこにあります。
パソコンが苦手。
Excelが怖い。
Wordが分からない。
40代・50代からでも大丈夫なのか不安。
そんな声を、私たちはたくさん聞いてきました。
HEARTSでは、初心者の方や、パソコンに苦手意識がある女性が、自分のペースで学べる環境を整えています。
「出来ない人を出来るようにする」のではなく、
「本当は出来る人が、自信を取り戻す場所」でありたいと考えています。

