私はこんな仕事していますが、勉強は大嫌いです。
だから、生徒さんの気持ちも分かるし、だから結果を出す為に、余計な情報を抜いて、最短でゴールにたどり着ける様に、でも最低限度の応用力も身に付けられるように、基礎も最低限度にして、とにかく『できた!(*‘ω‘ *)』をいち早く体験し、デキる!という事を最優先にした授業形態にしています。
学校の授業の様に、それいつ使うねん?! という事を極力減らして、自分の中での、目標と現在のスキルとのギャップ。
これを埋めるのが問題解決力ですが、このギャップを埋めるのに、どれほど先があるのか見えないと、絶望しますよね。やる気が無くなります。
だから、先にロードマップを描ける事、それを体験する事がHEARTSの勉強の仕方です。
で、勉強嫌いがやる学校HEARTSってわけ(*‘ω‘ *)
勉強好きな人の勉強のやり方だったら、本屋にいくらでもあるから、それ参考にしてください。
私のやり方は、勉強嫌いな人間のやり方です。
さて、勉強嫌いは、純粋に面白くない事が嫌いです。
私の場合はそこに、B型という特性が乗ってくるので、さらに興味の無い事は、どれだけやっても頭に入ってきません。入れる気がないが正解かな。
良い様に言えば好きに一途。 悪い様に言えば、好き以外は世界に存在しないと同じ 位な明確な差があります。
故に遊びは大好きです。
さて、幼稚園あたりだと、勉強よりも遊びを主体にすることが多いですよね。
幼児期というのは、教えればそれなりに暗唱もしますし、計算も普通にできます。だから、教える側としては
(*‘ω‘ *)こんな小さいのに、こんな事まで出来る!
という感動があるのも事実です。
が、普通に考えてみてください。 幼稚園児が、色々な歌を歌ってたり、好きなキャラクターの名前はスラスラ言ってますよね。
ハッキリ言って、ポケモンのキャラとか、プリキュアのキャラとか、私にしてみたら、どうでもええやん?それなんの生産性があるん?と思うんですけど、一瞬にして暗記する子ども達の能力を考えてみれば、別にそれが九九であろうが、英語であろうが、暗記して考えるという力は誰にだってあるもんなんです。
ただ、それを勉学に振るのか、放置して好きな事だけに振るのかと言うだけの違いです。
だから、どんな子どもにも能力はある。
うちの子は、あまり頭が良くないからと、親が言えば、その子は頭が良くない。自由奔放にそのように教育される。
うちの子は、頭がいいと言えば、その子は、親の期待に応えようと、自分を伸ばすか、押し殺すか、いずれメンタルがやられる場合もある。
だから、親は別に、しゃしゃり出てこなくていい。
子どもであれ、大人であれ、学習と結果の最大効果を得ようと思えば、一番やるべきは勉強じゃない。
(*‘ω‘ *)いかに楽しむか!
これ以上に、やるべき事はない。
ただ、人によって、楽しみ方は様々。社会で働くとなって、仕事や理不尽な事もあるかもしれない。
そうした事でも、いかにその環境を楽しめるのか。というのが結果や生き方に大きく影響を受ける。
私も教室では、いかにそれを楽しむか。楽しめるのかというのが主軸だというのは、伝えるけど、それってやっぱり人それぞれな部分もあるし、またそれまで、楽しめてない人が楽しむ方法なんて、中々見いだせない。
ここで楽しむというのは、何か映画を見て楽しいとか、ライブにいって楽しいとか、観戦して楽しいとか、そういう他者が提供するものを傍聴してるだけで終わるもの、Youtubeもそうだけど、そういう事じゃない。
自分事として、自分が実際に行動をする事で、楽しめるのかという事。
ここが「楽しめるのか」という1つの言葉を使っても意味が違う所。
注意して欲しいのは
他人が提供するコンテンツが楽しい ではなく
自分が行動するコンテンツが楽しい
という事です。
では、どうすれば、自分事として楽しめるのか
それが
遊び。つまりは好奇心 という事になります。
好奇心というのは、結果がどうなるのかという((o(*´∀`*)o))わくわく♪からくる。
つまり、まだ見ぬ結果、結論を見てみたい。
きっと、楽しいかもしれない。
きっと、自分のワクワクの気持ちに応えてくれるかもしれない
そんなものが好奇心という物である。
色んなまだ見ぬ体験をする。
自分の身体能力を超えた経験をする。
ダメだと思ってた事が出来るようになる。
こういう体験があればあるほどに、自然と育まれる。
(‘ω’) チャレンジ精神
つまり、失敗しても、楽しかったという経験の多さが、その後の人生を変える。
人生とは理屈じゃない。 方程式の様に、再現性があるのなら、誰もが同じルートを辿る
でも、実際は高学歴=高収入は傾向はあっても、イコールとはならない。
それだと、この世界で大学教授が最も高収入という事になる。
再現性が無いという事は、どの可能性、どの方向がベストなのかは、その時々によって常に変化するという事です。
例えば、この動画を見てみてください。
振り子は、普通、振れば行って戻ってきます。それは想像通りだと思います。
でも、それは1つの振り子。つまり自分自身の事ならコントロールできるし想像もできます。
でも、これが2つの要素になったらどうでしょう。その動きはもはやカオスと呼べる状態です。
赤い丸が親で、そこに付随してる青い丸が子どもだと思ってみてください。
親は定期的な運動をしようとしていても、子どもの動きは振り回されっぱなしです。
これは親子だとわかりやすいですが、例えば、夫婦間であれ、恋人同士、親友でも、その結合が強ければ強い程にこのような、法則で動きます。
たった2つの要素だけでも、これだけ可能性や、決定要因が異なるのです。
これが、さらに人生における様々な環境の変化、人付き合い、チャンスの有無。その実行の有無という要素が組み合わさってきたらどうでしょうか。
多重振り子だとこうなります。
もはや、全体としては、振ってすらいない。でも、確実に個別には触れているのです。
きっと想像していたのとは違うと思います。イメージしやすいという例で出しましたが、様々な要素が組み合わさる。
これがいわば人生です。
さらに、1024の要素を組み合わせたらこうなります。
この1つ1つの要素。または自分に繋がっている人間の動きによって、これだけ自分が影響を受けるというのが、図解で分かりやすくイメージしやすいと思います。
振り子は、初動の力だけの動きです。
つまり、周りの環境に流されるだけだと、これだけ振り回されるよ…という事を意図しています。
そこで、必要となるのは
(‘ω’)自分がどうしたいのか
という意思となる、もう一つの力を加える事で、この振り子の運動以外の動きを与える事ができます。
でも、これだけ激しく動く社会の中で、正しくあろうなんて思ったり、平均がどうとか、全体の中で、よくありたいと思ったとしても、そもそも計画通りに行くなんて事はほぼ不可能に近いです。
だから、常に変化に対応できるフットワークの軽さと、それを行動に動く為の行動力というのが、学力よりも圧倒的に力を持つのです。
大切な事は、聡明である事である。いかなる時も。冷静に対応できる事。
その為に、知識は必要です。
しかし、知識だけあれば良いとい事にはなりません。 誰の邪魔も入らない環境、つまり学生ならそれは通用しますが、社会では、知識はパーツの1つに過ぎません。
知識は必要ですが、行動力も同じ様に必要です。
そして行動力を生み出す原動力は
今、やらなきゃいけない行動=危機感 から生まれますが
今、やらなくていい行動は=好奇心 から生まれます。
好奇心とは、点数で決められるものではない、数値化されないという点で、非認知能力のカテゴライズをされているものです。
この好奇心を生み出す為にはどうしたらいいか。
それは、チャレンジ経験が多いかという点です。
チャレンジ経験は、 トライ&エラー を楽しんでるかという点です。
ここの経験数の多さは、粘り強く、壁を超える力 というエンジンでいえばトルクです。
私はエンジンで例えた方が分かりやすいのですが、
勉強漬けの子どもって、 一見して高出力ですが、エンジンで言えば、レッドゾーンまで回しまくってる状態だと思うんですね。
レッドゾーンまで回してるって事は、それだけ身体的に凄く負荷を掛けてる状態で、いつエンジンブロー起こしてもおかしくない状態で、しかもその状態を保持してるのは、凄く繊細な環境で成立する状態です。
トルクが無いから、一度失速したら、加速しきれない。 簡単に言えば、高回転型のスカスカのエンジン。
それに対して、遊びばかりしてる子って、 全然何もしてないように見えます。 低回転で、アイドリングみたいな感じ。
でも、本人に負担はさほどかかっていません。 一杯失敗してるから、衝撃に強い。ディーゼルエンジンの様に、トルクフルですが、高回転まで逆に回せません。
バランスを取ると、必要な時まで、キッチリ周り、トルクフルである
車でいえば、 環境に振り回されずに、自分が行きたい所に行くインプレッサのような
当然、失敗はある。でも、それを含めてのチャレンジ精神。
これまでの世界と違い、創造性とは、ただ空想の世界を描けるという事ではなくなってきています。
変化の激しい世界で、壁に立ち向かって、乗り越えようとするトルクフルな生き方が必要です。ダメなら諦めようでは、振り子の様に、周りに振り回されるだけです。
勿論、それが良いっていう人もいます。
何の変化も求めず、周りの環境変化に合わせるのが、良いという人も一杯います。
そういう場合は、そのまま流れてもらってOKです。
ただ、勉強嫌いでB型な私は、
周りと同じ事をやってるのが嫌だし
周りと同じ評価規準で平均や、良し悪しで評価されるのが嫌だし
多数決が常識 と考えるのが好きやない、どう考えても変えられない。
(*‘ω‘ *) 私が私である。
という性格上、またはそういうタイプの人には、変化は必要です。
結果的に、粘り強さは、勉強嫌いが、勉強好きという程ではないけれど、嫌いじゃない…という事になるし。
嫌いをどうにか、好きにしようと自分にフィットする様にカスタマイズできます。自分自身の価値観を含め。
私を通す為に、私を変える。
私らしくとは、こういうことだと思ってます。
何も変えようとしないで私を貫くなんて出来ません。
その原点は、川の流れの観察によって得た私の解です。
どんな流れを辿ろうと、川は変化しながら自分を保持している。 変化しない。というのはその方が無理がある。
自分を通すと、自分を信じられる。
完璧じゃないし、失敗も多い。バカだけど、でもそれが自分なのだと、自分を誇れる。
それは自己肯定感や幸せ実感に繋がる。
誰かの平均であろうとするな。
あなた自身が誇れる自分であれ。
誰かが決めた正しさに従おうとするな。
自分の信念に従え。
誰がが作った空想の物語で感動するよりも
自分自身で作ったリアルな人生で感動しよう。
あなたは、何者でもない、あなた自身でしかない。
あなたの人生は、誰のものでもない、あなたの物語だ。
当たり前だ。 そんな当たり前を忘れてしまってはいけない。
日常と、ルーティーン化された生活の中であっても、決して忘れてはいけない。
販売されている感動ではない。
用意された感動ではない。
自らがつかみ取った感動こそが、好きの原動力となる。
それを力づけるのが、チャレンジ精神、その根本が遊びに繋がってきます。
でも、あれはダメだ、あれは危険だって親が止めたらさ。
学生の内は良いけど、社会人なってから、スカスカのエンジンで世の中に放たれて、上手くいかなくてもいいの?
自分の子どもがさ、生涯死ぬまで、親が面倒見れるならいいけどさ。
そうじゃないのなら、子どもが子ども自身で自分に自信を持って、チャレンジして、変化の激しい世界で随時対応できる力身に付けさせてやった方がいいんじゃないの? って思う。
もう高度成長期みたいに、誰もが成功してた時代じゃないんだよ。物不足から、物余りの世界にシフトして、感情が売買の対象になってる世界にシフトして、全ての作業エリアが世界規模になって、過去最高の円安となり、価値基準が変わってるのに。過去の価値観をそのまま継承するって発想が貧相だと思わない?。
(*‘ω‘ *)因みには私の子育て方式は、子どもは崖から蹴落とすタイプ。
多分、人間以外の動植物・虫も、全ての有機物といっていい。がその方式だから。
変化が激しい時こそ、原点回帰
(‘ω’)人間だけが特殊すぎんだよ。腫物みたいに扱いすぎと思う所です。 言うてもヒト科の動物やからね。